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1月, 2011の投稿を表示しています

質と品質

質が良いのと品質が良いのは、普段の会話では同じように使われてしまいますがこれは、「安い」ことが他と比べて安いのか、単に低価格なのかで違うように意味が違うはずです。 品質管理的には質の標準化、ぶれの少ないものが品質の高いものと表現されます。 前回購入したものと今回であまりに違っていては信用は生まれません。またチェーン展開していればどこで買ったものでも同じ質(味)だったりする必要がありその企業なり、商品のロイヤリティーを上げる事ができそうです。 年をとってくるとだんだんに「そんな理屈っぽく言わなくても伝わればいいのよ」「ようは、いいものなんでしょ」なんて言ってくるおばさんがいますが困り者です。 たとえば、蛍光灯が2000時間の寿命で使用できるとします。たまたま5000時間使えたとして、それは都合はいいのですが品質としては決して良いものではなく2000時間に近いほど(そういった商品が多いほど)品質が高い商品と言えます。 わかればいい、通じればいいというのはおばさんの特許のように思っていましたが、実は若者の中にあるスラングや短縮会話の中にも危険なものがある様に思えています。 言葉は文化なので、使っている人により時代によって代わってきてしまうでしょうし、それでいいのかもしれません。ただ、単にいい加減だったり「音」の響きがいいだけで使っているのはちょっと違う気がします。 鬼のように〇〇は昔の言葉ですが、「激うま」に似た表現するのに「鬼うま」というのがありましたが、本来鬼は忌み嫌うものの象徴なので「鬼熱」などのように否定的な度合いが強い場合に使う言葉なので、意味を根本から履き違えて、ちょっとおばかな表現に聞こえてしまう私はなんなんでしょうか。

忙しいと言う事

何の本で読んだのだったか、忙しいとは立身偏(心)を亡くすと書くので「心をなくす状態」処理量の多い事もあるが、精神的に余裕のない様を表していると聞いた事がありました。またその注釈に、いそがしいを連呼する者は実は大して重要なポストにおらず、単に心が狭いだけという内容の事も書かれていたと思います。 それを始めて読んだときには、たとえば同じ100mを走っても大変だったと思うものがいたり、同じ仕事でも簡単にこなせる者がいたりという、個々の能力に対して寛容であるかどうかの尺度の事なのかと思っていました。 実際には、(おそらく)責任ある判断すべき人物の口から忙しい(だからこれ以上の仕事はできない、もしくは聞けない、情報を入れるな、聞きたくない)のような流れになってしまっては正確に判断できる情報が入ってこなくなってしまい、自分の首を絞めることになってしまうのではないかな、と感じるようになりました。 これは、自分が情報を連絡もしくは報告してもらう立場になるまでなかなか感じられなかったことですが、立場が変わらないと仮想、架空なものでは考えが及ばないと言うのか、答えがぜんぜん違ってきてしまうと思えるものでした。

対向車

偽善者という言葉が大嫌いなんですが、偽善な行為に見えてしまったとしてもその事でよかったと思える人が自分以外にいれば、それはもう偽善ではないように思えています。 車を運転していて時々思うのですが、右折をしようと小さな交差点で止まっていると、道を譲ってくれる対向車線の直進車がいます。本人は入れてくれようとしているのですが、その親切な車には後続車はなく、早く行ってしまって欲しいなと思うことがよくあります。 入れてもらっているのに何か文句のような事を言ってはいけないのでしょうが、こちらが右折するのに、その車が止まっている事で、その向こうを直進するかもしれないバイクや自転車が見えないことが問題なのです。 なんというか譲り合うのは良い事なのですが、自分の後ろの状態をもう少し考えられたらもっといいのでしょうが。

手当てをする

「手当てをする」と言うのが、文字通り患部に手を当てるというように聞いた事がありました。お腹が痛いときなどにお母さんが手を当てたりさすったりすることを思い浮かべ納得していたのですが、言葉の意味としては「手配する」などでも使われるように、「手で〇〇を患部に当てる」のように捕らえるべきだと思えます。

外国人留学生の支援制度はいらない

沖田東一という方が、 平成22年10月24日に書かれているのですが非常に共感できたので広めるためにコピペしてみました。 問題がありそうなら削除します。 誰もこんなとこ見にこないか・・・ 先日、民主党が朝鮮学校の無償化を党内で決定した。外国人である朝鮮人の学校の為に日本の税金が使われるのは非常に憤慨する話であるが、他にも自国民よりも外国人を優遇する制度がある。  たとえば国費外国人留学生と学習奨励費。これは諸外国との国際交流のために設けられた制度で、留学生のおよそ2割(約2万人)が対象となっている。国費外国人留学生には学費免除のほか滞在費(渡航費・生活費・宿泊補助費)が年間約220万円支給、学習奨励費は対象留学生に年間約60万が支給されている。両制度で合わせて約280億円の税金が、外国人への奨学金に使われていることになる。  おかしいのは、自国民である日本人対象の奨学金給付制度がないことだ。日本学生支援機構による奨学金はあるが、これは「貸付け」のため卒業後に返済しなればならない。しかし外国人留学生への奨学金は国の「支給」のため返済する必要はない。これは自国民への不当な差別ではないのか。  当然だが留学生の親は納税者ではない。奨学金に税金を用いるなら、まず納税者である日本人への奨学金制度を確立させるのが優先であろう。  また、留学生の内訳はその約7割が中国、約2割が韓国人である。彼らは卒業後は母国へ帰り、日本で得た知識技術で母国の技術発展に貢献する。つまりこれは競争相手国への自国技術の供与に他ならず、日本は競争相手国への支援のために、毎年300億近い税金を投入していることになる。実にばかげた話である。  ちなみに外国ではどうなのか。たとえばアメリカ・ヨーロッパ・豪州などでは、国費留学生の割合にしても、留学生全体の2%~0.5%と、その数は日本より遥かに小さい。また、留学生には自国民よりも高い学費が課せられている。アメリカの場合、大学にアメリカ人が入学する場合の学費は年額約5500ドルだが、外国人が留学する場合は約15000ドルと3倍近い学費になる。自国の技術を他国の人に教えるわけだから当然の話であろう。  それなのに日本ではお金を払って留学生に自国の知識技術を教え、その負担は日本人が支払っている。このような売国的制度は即刻改めるべきだ。まず日本人へ

語源 1

むかしぶりっ子という言葉が良く使われていましたが、松田聖子というアイドル歌手によって広まったというのか、共に普及したというのか。いわゆるカマトトのことですが、派生語?にハマチやハマチっ子などもあった様に思います。松田聖子の本名が、かまちのりこだから訛って、かまちっこになったのかとしばらく思っていました。 これって通勤バスの「ワンマンバス」をみて女子中学生が「マンタンバス」の間違いじゃ?と言っていたのと同じなのかも知れないと、恥ずかしい思いでした。 以前から、語源で気になっていたものに「ダサい」というのがあります。 ダサいはずっと「だって埼玉だもの」から来ていると思っていたので、自分が使い始めた当時(1978年)は埼玉県民が必死に「ちばらぎ」や「だっちば」と無理のあるごろの悪い言葉で応戦してくるも他府県民の支持を得られず定着したのは「ダサい」だけだったように記憶しています。 今の埼玉の人たちは違うのかもしれませんが、当時は年齢に関係なく埼玉県民はパステルカラーを着る人が多いイメージでした。いい年のお父さんがそんなに明るい色はちょっとな感じでしたが、千葉はグレーやエンジの地味な色使いが多いように思えたので、どちらがましなのか。 「ダサい」自体はやぼったいとか格好悪いの意味なのでしょうが、私は逆に田舎っぽいというのではなく、弱々しいとか情けないという意味で使ってました。語源の説にある「田舎」でだしゃと読んでるのは聞いた事もないですし厳密な語源は違うところにあるかもしれませんが、どちらかというと車のギヤが抜けて惰性で走るところから「ダセー」という方がなんだか憎めない間抜けな埼玉県民の気質に近い気がします。 いや、「ダサい」は「だって埼玉」ではないのかもしれないので話の進め方が変な事になっていました。